2024-11

寄席紳士録

四代目鈴々舎馬風とその一門

「四代目鈴々舎馬風とその一門 - 古今東西寄席紳士録」毒舌で受けた鈴々舎馬風は真打昇進後まもなく先輩の春錦亭柳桜を弟子にする――という珍しい実例を持っている。戦後、若者の一人を弟子にしたが、諸般の事情のために後輩の三升家小勝門下へと移籍させている。
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五代目古今亭志ん生とその一門

「五代目古今亭志ん生とその一門 - 古今東西寄席紳士録」昭和の名人・五代目古今亭志ん生は貧乏と改名で知られたが、1940年代に入るといっぱしの真打となり、弟子を抱える身となった。息子の馬生、志ん朝をはじめ、馬の助、志ん馬、圓菊、志ん駒と優秀な人材を輩出し、古今亭一門の隆盛を築いた。
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七代目春風亭柳枝とその一門

「七代目春風亭柳枝とその一門 - 古今東西寄席紳士録」七代目春風亭柳枝は「えへへの柳枝」として人気を集めたが、40代で夭折。晩年に入門した笑枝は大師匠の柳亭左楽に引き取られ、柳亭痴楽を襲名した。
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二代目三遊亭円歌とその一門

「二代目三遊亭円歌とその一門 - 古今東西寄席紳士録」二代目三遊亭円歌は新作と古典の二刀流で早くに売り出した。戦前にはすでに一枚看板で女弟子の歌の家色奴をはじめ、三遊亭歌笑などを抱えていた。戦後、弟子が一斉に増え、三代目圓歌、三遊亭歌太郎、三遊亭歌橘などの優秀な人材が出た。
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三代目三遊亭金馬とその一門

「三代目三遊亭金馬とその一門 - 古今東西寄席紳士録」三代目三遊亭金馬は早くから売り出したこともあり戦前既に数人の弟子を抱えていた。ただし東宝専属という特殊な立場だったこともあり、弟子の多くは他の師匠の所に移籍した。芸にうるさかった一方で面倒見がよく、歌笑、小南、四代目金馬、林蔵、南喬と優れた弟子を育て上げた。
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七代目林家正蔵とその一門

「七代目林家正蔵とその一門 - 古今東西寄席紳士録」七代目林家正蔵は戦前の爆笑王として売れに売れたが弟子はあまり多くなかった。東宝専属という関係もあり、真打になった弟子はない。最晩年に息子の三平が入門。今の海老名一族の林家はここから始まっている。
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八代目桂文楽とその一門

「八代目桂文楽とその一門 - 古今東西寄席紳士録」黒門町で慕われた文楽は20代にして弟子を持った。事実上の一番弟子であった七代目橘家圓蔵をはじめ、六代目三升家小勝、戦後は柳家小さん、桂小益、桂文平、桂小勇と優れた弟子を輩出した(ただし戦後の弟子の多くが真打になったのは師匠の没後)
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桂小文治とその一門

「桂小文治とその一門 - 古今東西寄席紳士録」関西から東京へ定着した桂小文治は東京随一の弟子持ちとして知られ、芸術協会のほとんどの幹部の面倒を見た。圓遊、枝太郎、文治、小金治は小文治の下で幹部になった連中、今輔、圓馬、土橋亭里う馬なども小文治の下で大名跡を継ぎ、彼を支えた。今日の芸協の大半はこの小文治一門の流れをくむ。
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六代目春風亭柳橋とその一門

「六代目春風亭柳橋とその一門 - 古今東西寄席紳士録」落語芸術協会会長として40年以上君臨した春風亭柳橋は20代で弟子を持ち、桂三木助という立派な弟子を育て上げた。会長の割には直弟子が少なく、春風亭柳昇、橋之助、小柳枝が出たくらいか。預かり弟子は落語界随一でそのほとんどが出世を遂げた。
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柳家金語楼とその一門

「柳家金語楼とその一門 - 古今東西寄席紳士録」昭和の爆笑王・柳家金語楼は若くに売り出し、落語芸術協会の基礎を築いたこともあり、一門を築いた。ただ当人が喜劇や漫芸を十八番にしたこともあり、純然たる落語家よりも個性豊かな面々や色物が集った。漫才から紙切りまで取り揃えた一門も珍しい。