五代目三遊亭新朝

五代目三遊亭新朝

 人 物

 ・本 名  桂 卯之助
 ・生没年  1866年11月~1936年3月2日
 ・出身地  大阪

 ・活躍年代 1880年代~1930年頃 

 来 歴

 五代目三遊亭新朝は明治から昭和にかけて活躍した落語家。長い息を保ち、名跡を継いだものの、ブレイクすることはなかった。

『文之助系図』によると「二代目桂鯛助の息子」だという。父が落語家だけに当人も早くに落語家になったらしく、「桂鯛吉」としてデビュー。

 若い頃に東京へやってきて三代目春風亭柳枝に入門。「春風亭錦枝」と名乗る。

 1894年4月、『番附百種 一覧博識』に出された落語家番付を見ると東前頭29枚目となっている。30枚目が二代目柳家小三治(二代目談州楼燕枝)なので実力はあった模様。

 1894年7月、四代目三遊亭圓生門下へ入り、「橘家圓次郎」と改名。『東京明覧』では「橘家圓次郎」とあるため、これが正しい模様。

 長年入谷に居を構えていたそうで、入谷界隈では有名人であったようである。

 1908年10月、「五代目三遊亭新朝」を襲名し、真打昇進。三遊派の幹部となった。

 当時の三遊派の芸風をよく学び、芝居噺や人情噺などを十八番にしたという。中でも『桜田門』『頭山』などは十八番であった。

 三代目三遊亭金馬は『桜田門』を以下のように回顧している。

 落語の方にも、今は演り手のなくなった、「桜田門外血染めの雪』と云う芝居噺がある。
「雪に滑って、どっさり落ちる愛宕の男坂取り逃がしたか残念な」
 と、山番をふんまえて一ト台詞、有村治左衛門の噺だが……。初代三遊亭円朝師の弟子で大阪生れ東京育ちの、三遊亭新朝と云う人の得意の出しものであったが、噺家一人故人になると二つや三つの落語も共にこの世から姿を消す。淋しい次第である。

 また、林家彦六が晩年まで十八番にした『あたま山』のベースはこの新朝の演じていたものであるらしい。『林家正蔵集 上巻』の芸談の中に――

あたま山 
奇抜な構成のはなしで、理詰めに考えりゃばかばかしいのでしょうが、学生さんはこのはなしと『首提灯』が好きですね。傑作中の傑作だという人もいて、久保田万太郎さんが、たびたび三越落語会にこのはなしを指名してくる。そのうちに放送局でもやってくれというようになりました。これは聞き覚えです。上方から来た三遊亭新朝という人が、副舟のところなどをこまかく描写して、一席でやってました。品川の圓蔵師匠もマクラでやってましたね。

 実力はあったというが、華がなかったのか、大看板になり切れなかったようである。

 1917年12月、池田芳次郎青年を三代目古今亭今輔の門下へと斡旋した――と川戸貞吉『新現代落語家論』にある。この芳次郎青年は戦後活躍した二代目桂枝太郎の前身。

 関東大震災以降は統合された落語協会に所属したものの、1924年3月、協会を退会。三遊亭圓遊たちについて「三遊睦会」に参加している。『都新聞』(1924年3月1日号)に――

孤立奮闘の三遊睦会 愈々大小二派に
確分した落語界落語睦会と演藝会社派と合同して出来上った東京落語協会は今度更に旧東西落語会派即ち圓遊、むらく、談志、小燕枝、馬樂、扇橋、新朝、燕柳、歌奴、小せん、玉輔、萬橘、ぜん馬、さん治、圓璃、馬きん、残月樓、大阪馬生等の一派及びその所属席とも合併の協約整ひ愈々三月一日より公式に出演と極まり、これで落語界の大同団結は完全に出来た訳であるが従来の協会所属演藝者中、旧睦会の連中と今回新加入の連中とは当分紅白に分ける制度を取り隔番に各席へ出演の筈で、今まで三派四派であった落語界も斯くて協会側の大団体と金馬等の三遊睦会とに両分され三遊睦会は愈々孤立の形ちとなり一同結束を固め必死奮闘してゐるので、世間の同情から毎夜相当の入りを占めてゐると

 ただし飛び出したのも束の間、三遊睦会は長く続かず、落語協会へ帰参。

 そうかと思うと、1927年1月、柳家三語楼と一緒に落語協会を再び飛び出し、「三語楼協会」に所属するようになった。

 一方、新作・若手重宝路線の三語楼ともうまくいかず、1930年代に入るとほとんど高座に出なくなってしまった。三語楼協会分裂後も協会に復帰せず、事実上の引退となった。

 晩年はどういうわけか、劇作家の宇野信夫の家に出入りしていたようで、宇野は晩年まで親しかったという。宇野は新朝と一朝から聞いた話を元に『晩年の圓朝』なるエッセイを書いている(『話のもと』掲載)。

 私の学生時代に、圓朝の弟子が二人いた。その一人は、三遊亭新朝。相当な年齢で、頭は奇麗にはげていたが、いかにも昔の芸人らしい風采の人だった。その頃よく私の家へあそびにきた志ん生(当時甚語楼)が仲間に「新朝さんぐらい物もちのいい人はいない。あの羽織の紐は、二十年も前に見たのとおんなしだ」と話していたのを覚えている。
 新朝は当時人気のあった柳家三語楼一派に属していた。大阪訛りがあって、義理にもうまい噺家とはいえなかったが、師匠圓朝ゆずりだと前おきをして、よく芝居噺をした。もう一人は三遊亭一朝。老年で引退をしていたが、志ん生が、この一朝から、圓朝の晩年をきいたことがあるといって、私に話してくれた。それを記憶をたどって書いてみることにする。

 1936年3月2日、70歳で死去。

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