三遊亭圓麗
人 物
三遊亭 金朝(三代目)
・本 名 芳村 源六
・生没年 ??~1895年2月26日
・出身地 東京 下谷
・活躍年代 幕末~1895年頃
来 歴
明治期の名人・二代目三遊亭小圓朝の父、戦後の実力者・三代目小圓朝の祖父として知られる古老の落語家。
子供は有名であったが、当人は謎まみれである。山本進は『名人名演落語全集 第4巻』の中で――
今のところ私は諸番附等から見て、芳村源六は初め弘化の頃圓朝の父圓太郎の門人で圓次郎、嘉永初め頃にさん馬門に移ってらん馬、嘉永末に多分二代目圓生門で狂言亭圓玉、のち圓流となってから圓朝門に移り、 明治十一年頃、圓麗となったものと推測している。
と推測しているのがわずかな経歴か。
幕末に橘家圓太郎の弟子となり、「圓次郎」。さらに二代目翁家さん馬(後の爆弾の三笑亭可楽)の弟子で「らん馬」、最終的に二代目圓生門下となった。
1840年代には、圓太郎の息子・次郎吉(三遊亭圓朝)がデビューした関係もあり、長い間彼のお守をしていた。圓朝も圓麗を兄貴分として慕ったという。
1858年1月30日、息子の忠次郎が誕生。この子も早くから落語稼業に進み、後に「二代目三遊亭小圓朝」を襲名。三遊派の大幹部となった。
1865年、息子の忠次郎を初代花房枝圓馬に弟子入りさせ、初舞台を踏ませている。中年に入っても鳴かず飛ばずの存在で、旧師の息子であり、幼いころ面倒を見た三遊亭圓朝の門下へおさまる形となった。
息子の忠次郎を本格的に落語家にするにあたって圓朝を頼ったという。
1889年に出された『番附集』の中に東二十三枚目として出ているが、三遊亭圓鶴などとほぼ同格であり、決していい地位ではない。番付にいる時点で真打扱いであったことは推測されるが、それ以上の評判は聞かない。
1892年8月8日、孫の幸太郎が誕生。この子も噺家となり、三代目三遊亭小圓朝を襲名する。
1894年8月、圓朝を筆頭とする三遊連が献金を行った際、「芳村源六」の名義で『官報』(1894年9月11日)に名前が出たのが最後か。
晩年は息子の出世を楽しみにしながら亡くなったという。没年は不明。
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