土橋亭里う馬(八代目)

土橋亭里う馬(八代目)

 人 物

  土橋亭どきょうてい
 ・本 名  岡田 佐太郎
 ・生没年  1883年5月~戦後
 ・出身地  ??

 ・活躍年代 明治~昭和初頭 

 来 歴

 土橋亭里う馬は明治から昭和まで活躍した落語家。五代目柳亭左楽の弟子で、俳諧や雑俳を得意とし、左楽をよく支えた。土橋亭里う馬という大名跡を許されたが、最終的には廃業している。桂文都に九代目を生前贈与するという珍しい実績を残した。

 元々はセミプロ落語家の第一人者で、落語指導者として知られた三代目柳亭左龍の弟子で、枝女昇と名乗るセミプロだったらしい。『食道楽』(1936年1月号)の柳家小團治「小島町の師匠」なる記事に「土橋亭りう馬(その頃枝女昇)」とある。

 その後、四代目春風亭柳枝の弟子となり、枝女昇。後に「春風亭芝好」と改名する。

 1911年1月、玉屋柳勢と改名。この頃から師匠よりも柳亭左楽に近づくようになり、左楽門下の一員として扱われるようになったという。

 1913年1月、5代目柳亭左楽門下になり柳亭富楽。1914年に出された『下谷繁盛記』なる本に「柳家富樂 車坂町 岡田佐太郎 明十六、五」とあるのが確認できる。青年はここから割り出した。

 以降は左楽の秘書のような形で師匠に尽くし、師匠の睦会創設や寄席交渉などで骨を折ったという。

 1919年夏、桂文楽や日本太郎たちと旅に出て、西日本巡業。9月21日には大阪反対派に参加し、大阪の寄席へ出席している。 

 1920年6月1日、神田伯山・古今亭今輔一行に同行し、大阪の寄席に出演している。

 1920年12月上席、「柳亭右楽改め土橋亭里う馬」を襲名。『都新聞』(12月1日号)に――

「這般各師の許しを得て先代の名跡を襲ひ申候間幾久しく御愛顧御引立の程御願申上候 柳亭右楽改土橋亭里う馬」

という襲名披露告知が出ている。若宮亭、神楽坂演芸場、末廣亭において襲名披露が実施されている。

 一方、襲名後はあまりパッとせず、睦会の中看板として甘んじる形となった。

 1926年9月18日、JOAkより『金明竹』を放送。

 1920年代後半に入るとほとんど隠居状態になり、睦会の寄席にも出なくなる。この頃、商売替えをした模様である。

 1933年頃に引退をしたらしく、そのままフェードアウトをした。

 先述の『食道楽』(1936年1月号)の柳家小團治「小島町の師匠」なる記事に「りう馬は左樂門下の番頭格となり今は他の商賣に轉業」とある。

 一方、落語界と縁が切れたわけではなく、仲間とは付き合いをもって俳諧の会などをやっていたという。

『痴遊雑誌』(1938年5月号)の中で落語界きっての俳人とうたわれた八代目入船亭扇橋、野村無名庵と共に俳諧の模様を掲載している。「葉柳や生洲に魚の刎る音」といった古風な句を披露している。

 戦時中の動向は不明であるが、落語界に戻ることはなかった。

 戦争を生き延びたそうで、1948年頃、後輩の五代目古今亭今輔の来訪を受け、「土橋亭里う馬の名前を譲ってほしい」と依頼される。

 交渉の末、里う馬は戦前贈与を許したそうで、今輔はその贈与された名前を桂文都に譲渡した。文都は後に「九代目里う馬」と名乗った。

 これが最後の消息であり、間もなく没したらしい。

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