三遊亭圓七
人 物
三遊亭 圓七
・本 名 山本 喜三郎
・生没年 ??~??
・出身地 ??
・活躍年代 明治初頭~大正?
来 歴
三遊亭圓七は明治初頭から大正まで活躍した落語家。元は初代三遊亭圓馬門下であったが、後に三遊亭圓右の弟子になったという。一枚看板にはなり切れなかった。
文之助系図に「初代圓右門人初め右光または三橘改め」とある。一方、別の系図には「三遊亭圓馬門人で菊馬」とあったりする。
圓馬は1880年に没しているため、それ以前からいたことは事実であろう。ただ、その後、圓右の弟子になったとは少し考えづらい(圓右は1883年真打昇進)。一時的に二代目圓橘の弟子になったのだろうか。
後に圓右の前名・三橘をもらい受けたらしく、二代目三橘を名乗った。
『上方落語史料』を検索すると三橘時代には以下のような資料がある。
『金城新報』(1890年3月11日号)の中に――
◇本月六日の夜より当市富沢町富本席にて、毎夜興行中なる東京の上等落語家三遊亭圓橘の一座は頗る上人気にて、圓橘の続話「順礼の仇討」は毎夜二席づつを演じ、愈々佳境処計りで、人情を穿ち得て至極妙妙。又た伯馬の滑稽演説は、笑わせる中に自然と風刺あり。清橘の音曲、是又ヒヤヒヤの声を発させ、其他文福、小夢等の援兵ありて、何れも口と腕の達者なる一騎当千の三遊隊、三扇と三橘の旗章を春風に翻し、凱歌発げるは瞬間で芸評。
これなどは初期の圓七の姿ではなかったか。その後はしばらくの間、大阪へいたらしく、『京都日出新聞』(1892年5月6日号)の「○菊酔爺、笑福亭を見る」の中にも――
至ツて出ぎらひの菊酔爺、晩酌のホロ酔ひ機嫌に三日の晩杖を新京極の笑福亭に曳けり。但し此の爺寄席は頗る好きなり。扨て少し時刻が後れしために円太郎のラツパは半分ばかりより聞かず。然し相変らず愛敬のあるお爺さんにて賑かにをもしろし。米喬の滑稽話し、顔を見ると鼻の高いので直ぐ吹出せり。米団次の落しばなし、これも面白し。三橘のブラツクの真似は陰で聞くと本物かと思はる。又ステヽコも旨し。
その後は東京へ帰った模様であるが、後に「圓七」と改名した模様。
1890年代は東京へいたもののパッとせず、大師匠の圓朝がなくなり、三遊派が分裂するようになると関西へ移籍している。
『上方落語史料』の1902年10月の記事――京都の寄席の10月上席広告を見ると、既に関西へ来ている。
◇笑福亭 午後六時二十分(吾喬)、同三十分(福篤)、同五十五分(福丸)、同七時五分(美名亀、小筆八)、同三十分(芝楽)、同五十分(南枝)、同八時十五分(福遊)、同四十分(円七)、同九時五分(曲引福太郎、円篤)、同三十分(文之助)、同五十五分(文我)、同十時三十分(米朝)、同四十五分(一円遊)。
この後、桂派へ所属したらしく、『大阪毎日新聞』(1903年11月28日)の中に――
◇桂派落語の定席淡路町幾代亭、南地金沢亭、新町瓢亭、天満林家席等へ来月一日より東京の三遊亭円七及び予て休業中なりし小文枝と兵隊戻りの小南が出勤するよし
この頃、面識があったのが立花家橘松――後の三代目三遊亭圓馬であった。『むらく新落語集』という速記の中に、圓七のせいで御難にあった話が出ている。
鳥渡三遊亭圓七と岡山で會て、當時彼が大阪に居住して思ったので、其人の處へ引返し、鯉昇と二人で厄介になって居た、スルと圓七がが加州金澤のいろは座へ出演する約束をして、ビラから鑑札を送って金の来るのを待て居るが、未だに来なイ何うか君たち二人で先乗をして金を取て送ってもらいたいと云ふ、宜しいと受合って私と鯉昇がひど禦敗で金常行きの旅愛を持べ、三十七年二月下旬雪を冒して金澤へ来て聞くと、いろは座の云ふには、何うも露西亞と職戦争が始まったので咲り興行処でない、夫故鑑札もビラも大阪の圓七さんの處へ明日送り返したと云っふ。サア困ってしまった、
しばらく桂派へ出ていたもののパッとせず、そのまま帰京。その後は三遊派に所属したものの、真打らしいこともできず、最終的には前座予備軍みたいな形で終わったという。
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