禽語楼小さん(二代目柳家小さん)

禽語楼小さん
(二代目柳家小さん)

禽語楼小さん

 人 物

 ・本 名  大藤 樂三郎
 ・生没年  1848年8月~1898年7月3日
 ・出身地  日向国(鹿児島とも)

 ・活躍年代 幕末~1898年頃 

 来 歴

 柳家禽語楼とも。昭和の大スター・柳家金語楼と同じ字であるが、血縁関係はない。今日も続く「柳家小さん」の名を初めて名乗った人でもある(初代小さんは春風亭小さん名義)。

 経歴は『歌舞伎』(1901年5月号)掲載の初代談州楼燕枝の遺稿「燕廼巢立實痴必讀 (五)」に詳しい。

燕壽 俗稱大藤樂三郎と云て、延岡藩鹿兒島士族、始め燕花と云ふ、一時方向を誤ち、駿遠間に遊歩する事数年、明治九年出府して、先非を詫び燕静と改名して、鑑札を請け、東海道沼津へ帰る、其後十年、僕静岡旅中に盡力なし、帰京後十二月妻花を同道して、當地へ帰る、十一年一月より出席して評宜く、三代目柳枝、前名燕壽を相續さす、俳諧に鼻丸の別號あり

 家柄はまずまずなもので、砲術家・高島秋帆や江川太郎左衛門からの直接指導を受けるほどのものであった。後の陸軍大将・大山巌や黒田清隆とは同門であったという。

 しかし、当人は武術や砲術よりも遊蕩を好み、最終的に家を勘当される形で出奔。

 明治維新直前(1867年)に、当時売り出しの初代柳亭燕枝に入門。「燕花」の名前を貰い、落語家になった。

 若い頃から芸の筋はよかったが、明治初年に「なかなか評価されない事」に苛立ち、東京を飛び出し、そのまま各地を放浪した。一時期、坂東橘という俳優に師事をして、「坂東橘壽」と名乗って舞台に出ていたこともある。

 その後、数年ほど放浪を続けていたが、なかなかこちらもうまくいかず、静岡の幇間・平内に弟子入りをして、幇間とも落語家ともつかないことをやっていた。

 1876年、燕枝を訪ねて先非を詫び、「柳亭燕勢」と改名して鑑札を取得(当時、遊芸鑑札という免許がないと芸人は寄席へ出られなかった)。この時は静岡へ戻ったが、翌年復帰している。

 関根黙庵『講談落語今昔譚』によると「1月の席を終えた燕枝が持病の痔の養生を兼ねて静岡へ行った際、柳亭燕勢という看板がかかっているのを見た。姿を隠してそっと覗くと元弟子の燕勢。その話術も風格も立派になっていたので、燕勢と面会し、前非を許し、東京へ戻るように促した」というが、これはいささか伝説臭い。

 しかし、燕枝も「十年、僕静岡旅中に盡力なし、帰京後十二月妻花を同道して、當地へ帰る」と語っているのを見ると、静岡へ引っ込んでいた彼を、師匠が恩情で引き戻したのは事実だろう。

 1877年1月、兄弟子の三代目春風亭柳枝に身元を預けられ、「柳亭燕花」として復帰。師匠のよき薫陶もあって事実上の真打として迎えられた。

 1883年1月、「二代目柳家小さん」を襲名。大幹部となる。

 武家育ちということもあり、おっとりとした風貌と気骨、さらに学問も相応にあり、漢籍の一節をひいて観客をけむに巻くなど、非常に進歩的な芸人であったという。三遊亭圓遊と並んで「近代滑稽落語の完成者」と見なされることもある。

 とにかく声がよく「鳥がさえずるような」と綽名されるほどの美声であり、能弁であった。

 ネタも艶っぽいものを好み、『五人廻し』『女大学』『猫久』などといった女性が出て来るもの、品のいい殿様や侍の出る『目黒のさんま』『将棋の殿さま』『盃の殿様』、またナンセンスな『鉄拐』などを十八番とした。

 一方、顔の拙さは評判だったそうで、ついたあだ名が「チンクシャ」とはすさまじい。元弟子の五代目三升家小勝もそれを認めており、『私の生い立ち漫談』の中で――

 この小さんは二代目で、本名大藤楽三郎。いまの金語楼とは文字が違う。つまり小鳥が囀るほどよくしゃべるというところから、禽語楼という名を国手松本順先生がつけた。いい名ですな。もっとも名前通りの能弁でした。落語家には持ってこいのおかしな顔で、神田の川竹へ出ていると本人を知らない五人連の学生が、小さ郎、出は静岡の士族で、初代燕枝の門人、燕静から燕寿、それから小さんになり、晩年は柳家禽語楼となった人でんという看板を見て、おおかた、女義太夫かなにかと間違えたのでしょう。入って来たつけが高座へ上るのを見て、
「何だ、これが小さんか。美人かと思ったらこれは醜男もひどすぎる」
と怒って出て行ったことなんぞがある。

という笑い話を残している。顔の面白さにかけては、当時の初代三遊亭圓遊と双璧だったそうで、「客に『まずい顔だなあ』とヤジを飛ばされた際、『あなたも不味い顔ですなあ』とやり返して爆笑をとった」「圓遊と落語家芝居をした際、『宮城野信夫』を出した。小さんが宮城野、圓遊が信夫を演じたが、余りにもひどい顔で客がひっくり返った」など顔に関する逸話は多い。

 一方、女の扱い方が非常にうまかったそうで、艶聞は途絶えなかったという。小勝も顔のまずさを指摘しておきながら――

 そのくせ、なかなかの艶福家で、色っぽい噂はずいぶんあった。してみれば男は、顔なんざあどうでもいいんで、つまり心意気だねえ。
「私あお前さんの、程に惚れたんだよ」
てなことをいう。

 1888年3月、松本良順の推薦と命名で「禽語楼小さん」と改名。当時の人気店・中村樓で改名披露を行った。

 松本は、幕末に人気のあった書籍『小三金五郎仮名文章娘節用』の「小さん金五郎」に鳥のさえずりを意味する「禽」をつけたして、禽語楼――とはうまい。

 この襲名前後が絶頂期だったようで、同年6月に発売された夢のや胡蝶「落語家評判記 第1集」でも――

禽語櫻小さん 滑稽家の大隊長ハ主なり昔十返舎一九は筆を把て巧み滑稽を弄す主へ扇子を採て妙に洒落を口走る彼の身振や面容や苦しき洒落を洒落をつかうて殊更聽客をして可笑がらしめんとする者流と異なり 薄き唇と黄色なる聲音とをもて軽々噺去て思へず聽客として噴飯せしひるものハ主が特占の妙所あり

と、十返舎一九と比較されて激賞をされている。

 三遊派のライバルで親友であった圓遊と手を組み、盛んに小噺や人情噺を膨らまして、今にも続く滑稽尽くしの一編の落語にした功績は大きいだろう。

 出て来るだけで笑いが取れ、滑稽尽くしで客をくすぐる芸風は、一部の古老から嫌われたというが、人気はすさまじいものであり、一時期は落語界を代表する大立者であった。

 毒舌批評で知られる岡鬼太郎も「今の小さんの方が上手い」と相変わらずの毒舌を発揮していながらも――

△大看板での禽語楼、即ち先代の小さん、今のとは反差に能弁で、而して新しい擽りを軽妙に敏捷に打つ放した。競べて見ると、今の小さんより藝は下だが、活気があッてよく客を呼んだ。 
△序だから云ふが、念語樸測してヨタ眞打では無かった。それで居て今の方が上なのは、今のが傑出してゐるからである。

と『あつま唄』の中で指摘している。「先代よりうまいと感じるのはこの小さんだけ」とズバリと切り捨てているのを見ると、小さんもまた実力はあったのだろう。名人でこそないが「うまい芸人」であったのは事実だろう。

 また、燕枝老衰後は三代目柳枝と共に燕枝門下の預かり人的な存在となり、養育に勤めた。

 三代目柳家小さん、二代目談洲楼燕枝などは彼の門で真打になっていたりする。

 1890年代に入ると脳病に罹患し、これに苦しめられた。折角の美声や滑稽噺にも陰りが出るようになり、当人も思うような芸が出来ずに苦しんだという。

 一方、艶聞の方は相変わらずで新内の岡本宮子といい仲となり、事実婚状態にあったという。

 1895年2月12日、宮子との間に「大藤治郎」を生む。この子は後に中学を出て、貿易会社に勤める傍らで現代詩や翻訳を勤め、文人から注目を集めたが、父同様に夭折をしている。

 息子の誕生間もない1895年3月、「小さん」の名前を弟子の初代柳家小三治に禅譲し、自らは「柳家禽語楼」と名を改めた。

 その後は高座に出る回数も少なくなり、事実上の引退となった。

 息子の成長を楽しみに暮らしていたというが、1898年7月3日に脳病のため、49歳の若さで死去。

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