春風亭柳花

春風亭柳花

 人 物

 春風亭 柳花りゅうか
 ・本 名  松平 乗房
 ・生没年  1852年6月25日~1915年12月30日
 ・出身地  江戸

 ・活躍年代 明治初頭~1915年頃 

 来 歴

 三代目麗々亭柳橋の弟子で、柳派の書記をずっとしていた落語家の一人。芸人としては中看板であったが、柳派の中では重宝されたという。

 経歴は謎が多いが、がんもどきの異名を取った入船米蔵は実の弟――と『名人名演落語全集 第5巻』の中にある。

 若くして柳橋に入門し、「麗々亭柳花」。生涯下の名前は変えなかった。

 落語家としては柳派の滑稽噺を得意としたようであるが、そこまで大成することはなかった。

 一応、二つ目にはなっていたそうで、八代目入船亭扇橋が1883年に初高座を踏んだ際にはすでに二つ目になっていた。

『痴遊雑誌』(1936年3月号)掲載の「昔の芸道修業」の中に――「二つ目が春麗亭柳花、此人は頭取代理を勤めて居て、手をよく書き、大正五六年迄働いて居りました人」とあるのが確認できる。

 一方、事務能力に長けており、師匠・柳橋や三代目柳枝を助ける形で柳派の事務を取りまとめた。後には頭取代理にまで上り詰めている。

 1887年より柳派の鑑札、転居などをまとめた『落語家名前欄』の原稿を取りまとめ、これを毎年清書してはお上に提出していたという。この原稿は1896年まで現存し、色々な人の手を渡ったのち、国会図書館に現存する。

 明治20年代頃までは一応の一枚看板であったらしく、1889年発行の児玉又七『番附集』では東31枚目、1892年の番付では東22枚目――と三遊亭圓左や三代目古今亭志ん生などと近い地位にある。相応に力はあったのだろう。

 1894年に師匠と死に別れた後は、三代目柳枝の門下へ移籍したのか、「春風亭柳花」と改名。

 柳派の頭取代理を務めるだけに一応の名前があったのか、1904年の『東京明覧』では「春風亭柳花 淺草區猿屋町三 松平乘馬」とある。

 1910年12月、『浅草繁昌記』でも「春風亭柳花 猿屋橋 松平乗房」とある。

 中年以降は高座にはあまり出ず、柳派の書記として一生を送った。

 1915年発行の『芸人名簿』に「春風亭柳花 松平乗房 嘉永五、六、二五」とあるが、これが最後の消息か。その年の暮れに息を引き取っている。

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